こんにちは、けいすけです。
M-1の準決勝も近づいてきたということで、今日は高比良くるまさんの漫才過剰考察を読んでおりました。
M-1の優勝者を超えた神視点が新鮮過ぎて、めっちゃめちゃ面白いです!
こういった思考をされる方だと、優勝した直後に1000万円の小切手を抱えながら「来年も出ます!」とか言っちゃうんだな〜w
と一年近くが過ぎて納得しました。
気になる方は、できれば12/5の準決前、少なくとも12/22の決勝前にお読み下さい!
そんなわけで、HappinessChainへの入会4ヶ月目を、振り返ります。
11月(10/25~11/24)の学習時間
結果:149時間50分
(累計:602時間50分)
時間だけ見れば、平凡プラスα。
ただし、中身は自分なりには満足です。
その理由としては、自分の学習の骨組みが仕上がった感覚があるからです。
詳しくは後述します。
11月に取り組んだ学習
今月の前半はPython中心の学習。
その内容としては、主にオブジェクト指向でした。
この辺りは抽象度も高く、個人的には難しく感じました。
例えば、解くべき課題を細分化した小さな問題が、「何をクラスに置けばいいのだろうか?」といった感じで、全然小分けにできてねぇ〜w
といった有様でした。
まだまだ理解も実践も乏しく、十分な言語化ができていませんので、復習と並行して、方法論と解釈を定着させていきたいところです。
SQLでは、「データの操作」と「データの設計」の双方を学習しました。
後者は現在進行形です。
それにしても、データの設計がムズい…
しかも、ただでさえムズく感じるのに、論理設計と物理設計の間にトレードオフがあるとか言われると、「結局、実務ではどうなん!?」といった感じでパニくりますw
今月は、上記のオブジェクト指向もそうですが、従来よりも抽象的なレイヤーでの学びが多かったです。
今まで以上に、抽象と具象を行ったり来たりできる思考力を身につけたいと、強く感じました。
- REST
正直なところ、Udemyを最後まで見ても、ほとんど残っているものがありませんでした。
今までのUdemyも含めて、もしかしたら(そんなタイプがいるのかは分かりませんが)動画からの学習が苦手なタイプなのかしら・・・??
とりあえずは、改めて学んでおります。
よかったこと
日報管理と週報管理の開始
今月のベストアクション。
日報管理は日報というよりは、その実はスプレッドシートに小テストを都度残していく感じでやっておりました。
これのおかげで、随分と復習がやりやすくなりました。
一方で、週報管理は、週の中での課題を引き続きモニタリングして行って、血肉にするためのプラットフォームができた気がしております。
こういった自分なりの学習法は、Rails等のフレームワークみたいなもので、自分の学習をプログラミングしやすくなった気がしております。
読書の再開
土日に、ある程度の時間を読書に充てることにしました。
プログラミングに本腰を入れてからはほぼゼロでしたが、枯渇感が酷いので再開です。
読書は世界との API。
しかもネットとは異なり、時代のフィルタリングを受けた知見も多いので、しない手はないなと今更ながらに感じております。
悪かったこと・改善点
言語化の弱さ
以前から、言語化能力の弱さを感じております。
もう少し具体的に言うと、自分の考えや感情を、深掘りする力の欠如です。
自分の中で、それらがモヤモヤしている状態に耐えられず、「これでいいや。」とありきたりな言葉で済ませてしまう。
服はユニクロでいいとしても、自分の考えをファストに済ませていると、自分でも本心がわからなくなってしまいます。
(まあ、そもそも人間は昔からそんな存在で、だからこそ宗教があるのでしょうけど)
一見、言語化能力が弱いように見える時には、主に以下の二つの原因があると考えております。
- 本人の言語化能力の弱さ
- 他人の言語の引力の強さ(に翻弄されて弱く見える)
前者も問題ではありますが、後者はネットが加速したSNS時代特有の問題な気もします。
SNS(特にX)は、やたらピュンピュンと矢が飛んで来て、気付いたらそれが自分にも刺さっていたりします。
そういった意味では、引力が強過ぎる。
結果として、自分の言葉を紡ぐ前に、他人の言葉を自分の心にコピペしてしまうようなことが多くなった気がします。
SNSは、ITエンジニアにとって重要なツールである以上、無視はできません。
その一方で、この引力をある程度中和したいと感じてもおります。
スマホからXアプリをアンインストールした以外の具体的なアクションプランはありませんが、一定量の文章を定期的に更新していくことを継続していくつもりです。
差し当たっては、毎週の週報ブログに加えて、技術ブログも書くことから始めます。
言語化を神にしない
昔に比べると、社会全体として、言語化の重要性を見聞きすることが増えた気がします。
社会へのネットの浸透による帰結なのでしょうか。
2004年に、初めてブログを使った時には「自分の文章を世界に発信できてすごい!」と無邪気に思っていたのに、今では個人の発信は、権利というよりはほとんど義務になっていますよね。
まあ、令和6年に馬車に乗っている人はそれが生業でもない限りいませんし、生成AIもそうなっていくのでしょう。
要するに、技術の性というか。
私自身、上でも書いたように、言語化に対してはある程度の課題意識は、持ち合わせているつもりです。
ただし、その一方で「別に、そんなに深刻にならなくてもいんじゃない!?」といった、楽観的な気持ちもなくはないです。
例えば、若者言葉の「やばい」という言葉を使う奴は「やばい」といったことを時折耳にしますが、そんなに「やばい」わけでもないのかも知れません。
古語に「あはれなり」という言葉があります。
これって「なんか胸がじーんとする」「グッとくる」「うわあって言いたくなる」といった感覚をひと言でまとめた語彙なんですよね。
胸になにかがグッと飛び込んでくる。そして、感情がぶわっとあふれる。あふれた感情はプラスの場合(=いいものだと思う)もマイナスの場合(=悲しいものだと思う)もどちらもある。
良くも悪くも、感情が振り切れる体験─それが古語の「あはれなり」です。昔の人は、よくこんな便利な言葉をつくったものですよね。
しかし、現代語には「あはれなり」に代わる語彙がない。
感動したとか、感激したとか、そういった言葉が1番近いですが「あはれなり」が指す感情すべてを包括する語彙はありません。だから私たちは、「あはれなり」の現代語バージョンとして、「やばい」という言葉をいつのまにか発明したのでしょう。
「やばい」って、それがプラスの感情だろうとマイナスの感情だろうと、どちらかに指標が振り切れているといった意味ですよね。いいときもよくないときも、なにか自分の感情が大きく動くような事態に対して、私たちは「やばい」を使う。あれは古語の「あはれなり」とまったく同じ意味なんです。
これは余談ですが、そう考えている私は「『やばい』を使う最近の若者は語彙力がない!」って批判する気持ちがわからないんですよね。だって「やばい」って、要は「あはれなり」と同じ使い方をするんだから。平安時代はオッケーで現代ではダメなんて、意味がわからない!三宅香帆. 推しの素晴らしさを語りたいのに「やばい!」しかでてこない 自分の言葉でつくるオタク文章術 (p.41). Kindle 版.
言語は、所詮はツール。
「届けたい人に、届けたい言葉を届ける」
それができれば必要十分な気もします。
誰に届けたいのか?何を届けたいのか?
言葉を紡ぐ時には、そこはマストで考え抜きたいと思います。
そして、プログラミング言語も言語の一種ですから、届けたいユーザーに届けたいサービスを届けることを忘れないようにしていきたいものです。
相変わらず、長くなってしまいました。
最後までお読みくださり、ありがとうございました!
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